造園の仕事に従事し、20年以上になりますが 日頃感じていることを思いつくままに書いてみたいと思います。



□桐の箪笥


=====CO2削減と植物=======

地球温暖化ガスの一つであるCO2を削減することが叫ばれている。
CO2を減らす(CO2を吸収する)となると思い浮かぶのは光合成ではないだろうか
「植物は光合成によりCO2を吸収し糖を生成し酸素を排出する。」ということはほとんどの人が知っている
という事で植物を植えれば生きている限り大気のCO2を削減しつづけると思っている人が多いようである
しかしこれは誤解である。植物は生命活動をするために糖を分解してCO2を排出している
ようするに植物も人間と同じように生きるために呼吸をしてCO2を排出しているのである。
違いは人間はエネルギーの元である糖を外部から食物として取り入れる必要があるが
植物は糖を光とCO2から合成することが出来るということである。
問題は吸収するCO2と排出するCO2のバランスだ。
成長期の樹木の場合は吸収するCO2の方が排出するCO2より多いため結果として材として蓄えられて大きくなる
そして材の約半分が炭素の量となる(CO2量は炭素の約3.7倍で計算)
しかし老木になるとほとんど成長しない。これは吸収するCO2と排出するCO2がほぼ同じという事である
また枯れ枝なども多くなりそれが時間を掛けてCO2に分解されることを考えると排出するCO2の方が多くなる場合もある。
ようするに成長期の樹木はCO2削減に貢献するが成長期を過ぎた樹木はCO2の削減効果は期待できないのだ。
森で考えれば成長している森は大気のCO2を削減するが完成された森はCO2削減を期待できず
CO2により満杯になった貯蔵庫であるといえる。
次に森林を更新していく場合を考えてみると間伐して新しく苗木を植えればその苗木が生長する期間はCO2を吸収していくが
伐採した樹木の処理が問題になる。これを焼却処分すれば一気に大気中にCO2として放出してしまい
その分を数十年掛けて苗木が成長して補うということになる。
(ちなみにカーボンニュートラルという考え方があるがこれは化石燃料を燃焼する場合は単純に大気中にCO2を増やすが
植物などを燃やす場合はその成長時にCO2を吸収しているのでCO2の増加にはならないという考え方である。)
焼却ではなくその木が成長した期間より長期間利用していけば結果としてCO2の固定量は増える
女の子が生まれたら桐を植えその娘が成長し嫁に行くときに箪笥にして大切に利用していくなどというストーリーは
CO2削減としてもいい話なのかもしない。



□原っぱ校庭計画


=====校庭緑化について=======

校庭の芝生化が話題になっている
小中学校の校庭を緑化するのはヒートアイランドの緩和などに効果的で景観上も望ましいことであるが
芝生の緑化となるとハードルは高い。
転んでも痛くない芝生の校庭で思いっきり体を動かしてもらうという趣旨は理解できるが
Jリーグのような芝生のグランドを 造り、維持していくのはかなり難しい
そもそも日本(寒冷地を除く)のような夏の高温多湿な気候では常緑の芝(冬芝)の育成は難しく
一年中緑の芝をキープするとなれば
冬に冬芝(西洋芝)を撒布し、夏に夏芝に移行させるオーバーシーディングとよばれる
二毛作のような手法を使う場合が多い。
この作業を先生や生徒あるいは地域ボランティアだけで行うのは難しく
専門の業者のサポートが必要となるであろう。
生徒が芝生の管理を通してみどりへの親しみを持ってもらうという効果も期待したいところであるが
いきなりオーバーシーディングのような高度な芝生管理はレーシングカーで自動車教習を行うようなもので
親しみを持つ前に難しさばかりが印象に残り逆効果になりかねない
薬剤散布なども必要となり生徒が転がりまわることを想定すると疑問を感じる
さらに管理、養生のため校庭を一時利用できなくなり
生徒のための校庭か芝生のための校庭かわからないという本末転倒な状況になりかねない
冬は地上部が枯れても仕方ないということであればノシバ、コウライシバ、ティフトンなどの緑化になる。
冬芝を利用するより管理は楽だがそれでも校庭のような面積の芝生地を管理するのは大変なことである
そこで提案は「原っぱ校庭」だ
オオバコ、メヒシバ、オヒシバ、ノシバ、タンポポ、スズメノカタビラ、コニシキソウ、チドメグサ、ツメクサ、ホトケノザ、シロツメクサ
などの郷土種、帰化植物で緑化するのだ。管理は草刈のみ。
芝生のような均一化した校庭にはならないが運動は十分行える。
バッタや蝶やコオロギなども遊びにきてくれるだろう
西洋芝による高管理の緑化ではなく郷土に合った緑化をしていくのが本来の緑化教育の姿であると思う

バッタ目線の原っぱ



□新・里山への期待


=====循環型エネルギー供給=======

我々は閃光の時代に生きている
それは化石エネルギー消費時代である
この化石エネルギーは有限であり今のままの消費を続ければ100−200年で枯渇することになる
化石エネルギー時代を19〜22世紀の400年間とすれば
地球規模のタイムスケールで考えるとほんの一瞬の出来事となる
この一瞬の閃光のようなエネルギーを利用して人類は爆発的に人口を増やし、生活を劇的に変えた
問題はこのエネルギーバブルのような状況からどのようにソフトランディングするかである
そのためにはまず化石エネルギー消費を低減することだ
そしてソフトランディングのための時間を稼ぎ、その間に代替エネルギーによる生活にシフトしていかなければならない
古代イースター島では森林の伐採により得たエネルギーで人口が増えたが全ての森林を使い切ったとき
次に起こったことは部族間による悲惨な殺し合いであった。
化石エネルギーという閃光のようなエネルギーを使い切ったとき
ソフトランディングに失敗すれば世界は悲惨な状況になる
少子化が問題になっているがソフトランディングをするためには人口が減ることは望ましいことである
右肩上がりの成長ではなく右肩下がりの安定値への収束というパラダイムシフトなのだ
ガソリンが高騰しているが新しい税を導入してさらにコストアップしてでも化石エネルギー消費低減を強制的に行い
税収を代替エネルギー開発に当てるぐらいの荒療治が必要かもしれない
代替エネルギーとしては太陽、風力、水力、バイオマス、地熱などがある。これらを駆使し、
かつ省エネルギーをベースとした消費から循環型生活への質的変換が必要になるだろう。
バイオマスという分野においてはみどりが担う役割は大きいと考える
以前の里山が持っていた炭の生産という循環型エネルギー供給機能を現代版にアレンジした新・里山の創造が望まれる
すでにスウェーデンのベクショー市では1996年「化石燃料ゼロ宣言」を行い
木質バイオマスプラントにより電気、熱供給が大規模に行われているのである。



□江戸の町もヒートアイランドだった?


=====ヒートアイランドについて=======

ヒートアイランドという言葉をよく聞く、これは温度の等高線が都市部では島(山)のように中央部が高く周辺が低くなっている状態で
ビルの壁面や道路などが太陽熱で蓄熱することが主な原因でエアコンに室外機による多量の熱排出が加担している
地球温暖化は地球規模の対策が必要であるがヒートアイランドは局地的な対応で効果が期待できる
環境の熱的快適さには気温、湿度、風、放射の4項目が関係する。
外部空間の気温や湿度、風などをコントロールすることは非常にむずかしが放射環境は人為的コントロールがしやすいといわれている
MRT(平均放射温度)という指標がある。これは対象場所へ各面から放射される温度の平均値で暑さの体感指数ととらえることができる
たとえば日向と日陰では温度は等しいが日陰が涼しく感じるはMRTが低いからである。
MRTを減らす具体的な方法の一つは道路や壁面などを表面温度があまり高くならない材料にしていくことである
H.I.P.(Heat Island Potential)という指標がある
これは平均的な表面温度が気温よりどのくらい高くなるかの指標で
最大値は樹林ではほぼ0℃となり、芝生地で+10℃、アスファルトでは+30℃程度である(HIPは時間帯により変化する)
また建物の壁面温度もコンクリート面よりガラス面(内部冷房時)の方が低い
また高反射性の塗料を塗ることでHIPを抑えることができる
これを利用すれば道路面に塗布することで道路を芝生化したのと同程度の
効果が期待できるのだ(渋谷のスクランブル交差点にはこの塗料が塗られている)
保水性のある舗装材によっても同程度の効果がある
道路を全面高反射性の塗料で塗り、壁面は全面ガラス張りで室内は水冷式冷房で冷やせば
MRTを低くすることはできるかもしれないが
高反射性の塗料は照り返しがまずしすぎて不快であるし、冷房の電気消費は地球温暖化へとつながってしまう
環境への負荷を減らし、不快な要素を避けながらMRTを低減させることが重要である
植栽もMRTを減らす重要な要素であるが植栽位置によって効果が違う。
簡単に言えば日向に高木植栽をするとMRT低減に寄与するが日陰の高木はあまり効果がない
また熱しやすく冷めやすい素材を屋根材、壁材に利用すると日中の放射は増し夜間は下がる
逆に熱しにくく冷めにくい素材は夜間の放射が多くなる。
日中のヒートアイランド対策か夜間のヒートアイランド対策かによって対応も変わってくるのである
瓦などはコンクリートと比較すると熱しやすく冷めやすい素材だ
江戸時代は瓦屋根が江戸の町一面を覆いつくしていた。
創造だが江戸の町は日中結構暑くなったのではないだろうか
反面夜は今日ほど熱帯夜は多くなかったと思える
江戸庶民の生活も真夏の昼間のクソ暑いときは働かず、その分早朝、晩に働くといういたって合理的な方法で対応した。
環境負荷を抑え快適な生活を両立させていたのである


□リアル vs イメージ


=====CGパースと手書きパース=======

パースなどをCGで表現する技術は急速に進歩して住宅、ホテル、リゾートなどのパンフレットでは
フォトリアリスチックでハデなパースがあたりまえになっている。
ハデでインパクトはあるが表現がリアルすぎるため
見た人がイメージを膨らませるという余地は少ない
全体のイメージよりディテールの評価になってしまうことが多々ある
反面手書きパースなどは独特の雰囲気があり見る人の創造力をかきたてる。
こちらは詳細というより全体イメージの表現に向いていると思うのだが
たいていはプラス方向にイメージを膨らませるので
出来上がったものとのギャップが生じることもある。
どちらも一長一短があると思うが
CG派、手書き派などと二つに分けて考えるのではなく
表現する目的に対して両方の長所をうまく利用していければ合理的である。
CGは書きたいアングルを決めるのに非常に有効である
モデリングデータの入力さえすればグルグルと視点を変えて見栄えのあるアングルを探し出すことができる。
手書きではアングルを決めてから作図作業となり作図してからアングルを変更することは書き直しを意味する
イメージパースなどはコンピューターでアングルとアウトラインを書き出し手書きで肉付けをしていくという手法が
有効だと思う(例:マンション中庭スケッチ)
またCGを手書き風にするという手法もある。
なにもフォトリアリステックな表現だけがCGではない
写真のようにリアルに出力されたデータを手書き風に変換することも可能である
当然実際の写真を手書き風にすることもできる。
具体的にフォトショップなどのソフトの機能を駆使すれば
結構な雰囲気のある手書風作品が出来る。(例:バンコクの水上住宅)
またピラネージというソフトは
3Dデータをベースに手書き風パースを作成することに特化したものである。
モデリングソフトで手書き風に出来るものとしては
スケッチアップというソフトがある
手でなぞったような線や交点を少し延長させるといった手法で味のある絵にしようというもので
モデリング操作も直感的で結構楽しいソフトである(例:別荘地のデッキ)
最近はgoogleと連携し、google-Earthにも書き込めるモデリングソフトとなりまたフリーソフト版が提供されているので
興味がある人はダウンロードしてみるといいと思う。
ということでフォトリアリステック一辺倒なイメージがあるCGであるが
最近は手書き風という表現にもCGが入り込んできている
しかし今の段階ではCGの手書き風表現で本来の手書き表現の全てが可能という訳ではない
やはり手書きでしか表現できない味がまだまだ存在する。

*スケッチ集(グリーンサイトのCG、手書スケッチ)



□公園と焼肉屋

=====園と苑======

「公園」と「公苑」という言葉がある。
この違いについて気になったので調べてみた
今ではほとんどが「公園」という漢字で表現されているが
「公園」と「公苑」は区別されていたようである
本来の「公園」は庭園(Public garden)から発展したもので
狩場(Park)や、里山のような共有地(Common)の発展したものが「公苑」と呼ばれ区別されていた。
(英語で王室狩猟園をparkと呼ぶ)
要するに「公園」はgardenがルーツで「公苑」はparkがルーツとなる。

そもそも「園」という文字には、
「周囲に垣根がある果樹園」「野菜・花・草木を植えた畑や庭」等の意味があるようだ
先日、横浜の山手公園にいった。ここは「日本初の公園」という紹介がされていた
初めて制度として「公園」という言葉を行政的に使ったのは、1873年(明治6年)の太政官布達第十六号で、
その時飛鳥山、上野、芝、浅草、深川などの今まであった行楽地が日本最初の公園に指定された。
ちなみに日比谷公園は公園制度が出来てから初めて創られた大規模な公園で1903年に開園している
山手公園の開園は太政官布達の3年前の1870年である。
行政的な公園ではなかったが日本初のPublicgardenだったわけである。
しかし山手公園は一般人が自由に利用できる公園ではなかった。
この公園は外人居留地に作られた英国人のためのPubricgardenであり
日本人は立入り禁止であった(イベント時は有料で入場できたようである)
日本人が公園として利用できるようになったのは震災後の1929年からであり
その時も公園の半分はテニス倶楽部の会員しか利用できなかった。(この公園は日本のテニス発祥の地でもある)
そのため地元の人々には公園としての認識が少なく、会員制のテニス場と捕らえられているようであるが
その歴史性などが評価され2004年に文化財保護法による国の名勝に指定された。
「苑」という文字は、
「動物を飼う園」「物事が集中する所」「宮中のお庭」等の意味があるようだ。
「動物を飼う園」:馬事公苑、「物事が集中する所」神宮外苑、「宮中のお庭」:新宿御苑などの例があてはまりそうである。
蛇足であるが苑のついでに『なぜ焼肉屋には「○○苑」が多いのか?』という疑問についても調べてみた。
 「苑=宮中のお庭」」ということで、朝鮮・韓国の人たちが、「お店が『苑』のように立派な場所になるように」
という願いから屋号に「苑」をつけたそうだ。

開園時の山手公園(テニス発祥記念館資料より)



□鷲が見続けてきたもの


=====ゲニウス・ロキ======


先日、ある講座に参加して興味ある言葉に出会った
ゲニウス・ロキ[genius loci] という言葉である。
どうやら古代ローマ人が取り憑かれた観念で、
ゲニウス(守護霊)とロキ(場所の)というラテン語が語源とのこと。
それぞれの場所にひそむ“地霊”の力のようなものをさしている。
場所の安定性、土地の個性といった感じらしい
中村雄二郎は「ゲニウス・ロキは、それぞれの土地がもっている固有の雰囲気であり、
歴史を背景にそれぞれの場所がもっている様相である」と説明した。
講座では「積み重なった土地の記憶」という表現をしていた。
ZERO・SQUAREというコラムで日本橋の例を挙げたが
まさしく「積み重なった土地の記憶」という観念が当てはまると感じた
開発には今まであったものを壊すというイメージがある
新しくマンションが建ちそこに人々が住み始めるが
ほとんどの場合新住民は以前そこに何があったのか知らないでいる
そして風景がどんどん変化していく
このスピード、サイクルが激しく人々は翻弄され続ける
社会の変化に伴い開発していくことは必要であるが
やはり積み重なった土地の記憶を呼び起こすよりどころのような
ホッとする場所を築いていく必要を感じる。
開発という行為は過去を破壊して行うものではなく
過去を尊重して行われるべきだと感じる

日本橋と高速道路の問題で高速を地下化するより日本橋を移設しようという意見がある
私はこの意見には反対である。
ゲニウス・ロキという概念からすれば日本橋はその場所にあるから日本橋なのである
ほかの場所に移せば博物館に展示された日本橋の模型と同じである。
文京区にある元町公園を移設する計画がある(2006/6時点)
元町公園は震災復興公園として設置された52箇所の小公園の一つである
これらの小公園は学校とペアで配置されているのが大きな特徴で
狭い校庭に公園を隣接することで児童の体力づくりに役立ち
また地域に小学校をより認識させるといった狙いがあったように思う。
そしてこの元町公園は震災復興公園の中でも唯一開園当時の面影を残している公園で
段差のある地形により園内にはカスケードや壁泉などがあり
現存する他の復興公園に比べるとデザイン的にもかなりユニークな存在となっている
計画は公園を隣接地(小学校のある場所:学校は統廃合で廃校)に移設し大通りに面している
元町公園に総合体育館を建てるということである。
この計画は総合体育館の具体案がなく公園の移設だけを先行させたいという区の説明に
一部住民が難色を示しているらしい。(もっともだと思う)
私は単に公園を移せばいいだろうという考え方には疑問である。
かといって公園は絶対保存すべきだとも言い難い。
例えば総合体育館ロビーに元町公園のイメージ(カスケード、壁泉)をうまく取り入れそれが連続して
背後のオープンスペース(公園)に繋がっていくような感じになればいいなと思う。
利用者が以前はこんな感じの公園がここにあったなあと思い出せる空間になってほしい。
単純に経済性と機能性を求め元町公園のイメージとは何の関連性もない体育館と公園が出来るのだけは避けたい。

この元町公園の角に何故か柱が立ちあがってその上に鷲がいる。
この鷲は何十年もこの「場」を見続けてきた
これからも見続られる場所にいて欲しいと願っている。


文京区元町公園

参考ホームページ(ゲニウス・ロキ)
 松岡正剛

後日追記
区の都市計画審議会が2007年8月「元町公園の歴史性、文化性についてさらに議論を深める必要がある」とし
とりあえず公園は存続することになった

[top]



□ シューベルトとお釈迦様


=====代役にされた樹木======

お釈迦様が、悟りを開いた場所に生えていた木が菩提樹(クワ科)
そして入滅の時に花開き、その死を悲しんだといわれる木が沙羅の木(フタバガキ科)である。
どちらも日本には自生しない樹木である
今日、日本で菩提樹とよばれているのはシナノキ科でまったく別の樹木である。
沙羅の木もツバキ科の樹木で別名ナツツバキと呼ばれている。
間違って名前をつけてしまったとも考えられるが
仏教上いわれのある樹木が日本にも必要であったが
日本の気候では育たなかったので
似ている樹木を代役にしたのではないかと考えることもできる
クワ科の菩提樹は日本では正式にはインドボダイジュと呼んでいる
シナノキ科の菩提樹とは葉の形がハート型で柄が長い点が似ている
また沙羅の木も樹肌が似ているらしい
(私はリョウブの方が本来の沙羅の木に似ていると思う)
ちなみに菩提樹と呼ばれている別の木でベンガルボダイジュという樹木がある
通称バニヤンツリーとよばれているがこちらはインド菩提樹と同じクワ科である。
バニヤンツリーは広く伸びた枝から気根をたくさんぶら下げ、地面についた気根はそこから地中に根を張るので1本の木でも密林のような
独特の雰囲気があり日本の菩提樹とは似ても似つかぬ樹木である。
シューベルトの曲に出てくる菩提樹はシナノキ科の菩提樹で日本ではセイヨウシナノキと呼ばれ
ヨーロッパではリンデンバームと言われている
シューベルトとお釈迦様は関係なさそうである。
インド菩提樹(クワ科)菩提樹(シナノキ科)

[後日追記]
仏教に限らずキリスト教でも代替にされたと思える木がある
イスラエルとヨルダン付近にはレバノンシーダーが多く
ヒマラヤスギはレバノンスギの代わりに教会などに植栽されているらしい。

[top]



□ ZERO SQUARE


=====景観から風景へ======

景観と風景という言葉がある
どちらも同じ意味と解釈されがちであるが考えてみるとニュアンスに違いを感じる
これは私見であるが景観という言葉にはあるルールに基づいた視覚のみで捉える空間といったイメージがある
ルールを権力という言葉に置き換えることもできそうである
景観というのは眺めであるので統一された景観、美しい景観を築くということは
それだけ広大な空間(土地)を支配しているという権力の象徴であると考えることもできる
美しい景観というと言葉を街並でイメージすると
形、色がコントロールされ自然と調和した景観などが考えられる
例えば中世ヨーロッパや江戸の街並などがお手本になるようなイメージであろうか
その時代の街並は材料、技術の制約などから利用できる素材は限定されていたであろうし
また封建的な社会制度で制約もかなりあったと考えられ結果的に統一された美しい街並になりやすい。
乱暴な言い方をすれば昔は景観などというものを特に意識しなくても
自然と(あるいは強制的に)美しい景観が築かれていったのかも知れない。
(その点現代は世界中から材料を集め高度な技術で好きなように建設できるので統一感がなくなるのは当然だといえる)
難しいのはその景観を現代生活の中で維持していくことである。
街並保存をする人々等の努力は大変であろう。
パリ市の景観条例にフュゾー規制というのがある定められたポイントからの
歴史的景観を損なう建築物を建てることを禁止する条例であるが市の条例のため市外にある建築物には当然適用されない。
景観という範囲は広く行政区とは無関係であり景観保護の難しさを感じる
風景という言葉には空間を五感で感じ生きたものとして扱っているイメージがある
多少言葉遊びになるが殺風景という言葉は風景を殺すと書くわけでこれは風景を生き物と捉えているからであろう。
人々の生活の中で風景は作られていくといったイメージである
ナポリ旧市街の細い街路に洗濯物がひらめいている状態は
景観としては美しくないが風景としては美しいと感じる人もいるし
電柱が林立する街並は景観としては美しくないが生活観を感じる風景として好まれる場合もある
景観保存というのはある時代に完成された景観の中に他の時代の景観が入り込むことを拒否することであるが
現実的にむずかしい場合が多い。
景観を保存するという考え方に偏るのではなく「生活と共存した生きた景観=風景」に変換していく考え方も必要だと感じている
昔の景観に現代の景観を重ねて新しい風景を作っていくのである。
この仕事は非常に難しいかもしれないがこれからのランドスケープアーキテクトの一つの分野だと思う

日本橋の上を通る高速道路を地下に移設する構想がある
費用は数千億円以上かかるらしい。
日本橋の景観を復活させる目的らしいが
(正確には日本橋から青空と水辺空間を取り戻しそれを起爆剤とした地域復興を目的としているらしい。)
高速道路を移設することで日本橋の景観は復活するのであろうか
高速を見えなくしても日本橋に背を向けたように立ちはだかる
オフィスビルや商業ビルが目立つようになるだけのような気がする
確かに日本橋を江戸時代のテーマパークのようにしたいのであれば
その上に高速道路があるのは許されない。
しかし日本橋は江戸時代のテーマパークではない
現代の人々の生活が生き生きと繰り広げられている場である
江戸時代から明治大正時代の景観として今の日本橋をとらえるのであれば
上を通る高速道路は昭和の高度経済成長の景観とみることができる
日本橋の上に高速を建設したのが間違いだという指摘はあるが
建設当時は日本橋の上に建設することを選択したわけで
あれは景観上間違いだったから壊す(移設)というのはあまりにも暴力的な感じがする

ここで一つの提案をしたい
日本橋の中心には道路元標が埋め込まれているが
この元標を中心としたオベリスクを設置する
あたかも日本橋と高速という積層する景観を突き刺す串のようなイメージである
(オベリスクの語源には串という意味合いがある)
高速を走っている車にもここが日本橋だということをアピールできる
(現状でも小さな灯具があるが高速を走っている人にはほとんどわからない)
これにより二つの景観を道標という軸で風景として一体化させ、日本橋のシンボルにする
そして日本橋の上は歩行者に開放し、恒久的な広場にする
オベリスクには太陽光の集積装置などを内蔵させ高速下の照明に活用し
歩行者レベルは道路元票の博物館ブースとして整備する
また高速道路はルーフとなり日差しや雨から広場利用者を守ってくれる
広場にはベンチ、オープンカフェなどがあり、日本橋周辺の施設を繋ぎ合わせる核として機能させる
という提案である費用は数千億の1%未満でできるであろう
元票(0kmポスト)を中心にしたこの広場を
「ZERO SQUARE」と名づけたい


ZERO SQUARE

[top]



□ 古池やかわず飛び込む水の音。


=====サウンドスケープについて======


最近サウンドスケープという言葉をよく聞く。
「サウンドスケープ」という言葉は、環境の中における音の存在を表現するものして提唱された言葉ということである。
scapeは「〜の風景」という意味であるから直訳すれば「音の風景」ということになる。
川のせせらぎが流れる音、滝の落水音、木々でさえずる野鳥の泣き声、朝夕のヒグラシの泣き声
茂みから聞こえる鈴虫の音色、風にそよぐ葉の音、雨の音、風の音、雷鳴・・・
考えて見れば造園(景色)と音は切っても切り離せない関係のように思える。

日本庭園では水琴窟(すいきんくつ)という蹲(つくばい)の仕掛けがある
蹲は手を洗う場所で下に洗った水が溜まらない様に桝のようなものを設ける訳だが
ここに瓶をさかさまに埋め込み上にあけた小さな穴から水滴が下に溜まっている水面に落ち
その時瓶の内部で反響するわずかな水音を楽しむという粋な仕掛けである。
江戸時代には各地で庭師により盛んにつくられたようだ。
残念ながら中に泥などが溜まりやすく、いい音色はしだいに出なくなり衰退してしまったらしい。
しかし近年テレビで紹介されたことがきっかけで水琴窟が再び脚光をあびているようだ。
東京付近でも数箇所でこの水琴窟の音色を聞くことができる。
ただ周辺の騒音の影響でこのわずかな水音を聞きとるのは難しく
竹の筒などを水穴に向け竹筒に耳をあてるというスタイルで聞くことになる。
しかしこの方法だと水音は確かに聞こえるのであるが筒の内部からゴーという音もいっしょに聞こえてきてちょっと気になる
水琴窟の前で跪いて耳を直接水穴に近づけて聞くと音はクリアに聞こえるがちょっとつらい姿勢である。
騒音が少なかった江戸時代ではこんなスタイルはとらなくても
蹲のそばにいればこのわずかな水音が楽しめたのであろう。
その静けさが辺りを包み込んでいる空気感の中でこの音が聞けたら最高だなと思う。
水琴窟は音といっしょに静かさを楽しむ装置だったのではないだろうか。
「古池やかわず飛び込む水の音」という句もその静かな空気感が伝わってくる。
水琴窟のある蹲
水琴窟の音色(京都退蔵院)

[top]



□ 東京の街路樹がゴムの木になる?


=====温暖化と植栽について======


温暖化が大きな社会問題になっている。特に都市部ではヒートアイランド現象とのダブル攻撃で気温は年々上昇している。
一般に温暖化を問題とする場合は年平均気温がデータとして扱われているが
植栽においてはその地域の年最低気温の平均が重要なデータとなる。(クライメイトゾーン参照)
そこで東京を例として年最低気温(平均)の変化をみてみると

1961-69 -3.7℃
1970-79 -2.6
1980-89 -1.7
1990-99 -1.1
2000-06 -0.9*

となる。
約40年間で東京の年最低気温(平均)は約3℃も上昇しているということにる。
ちなみに東京の年平均気温は同期間で約1℃上昇してる。(全国平均では0.5℃)
これは一般に言われている温暖化、ヒートアイランド現象の指標より
植栽環境はさらに急激に変化しているということである。
-0.8℃という値は鹿児島県指宿、アメリカのフロリダとほぼ同じである。
私の住む東京下町ではゼラニウム(ペラルゴニウム)、ノボタン、カポック(シェフレラ)などは
路地植えで問題なく越冬しているし、インドゴムノキが街路樹の植桝から生え、街路樹化ているのも見かけた。
四国、九州などに多いカジイチゴ(落葉〜半落葉低木)なども路地で冬でも葉を落としていない。
ちなみに気象庁の記録によると東京の最低気温は1876年1月13日に記録された-9.2℃、
明治維新の頃はかなり寒かったということである。
当時と比較すると最低気温がほぼ10℃も上がっている訳である。
このままだと東京では寒冷地向落葉樹は生育できず街路樹はゴムの木になるかもしれない。
街路樹がゴムの木になるだけならよいが問題はもっと深刻である。
温暖化を食い止めるには二酸化炭素を同化する必要があり
そのためにも緑化は重要なファクターになっている。

*2006/6 最低気温のデータを更新しました。

[top]



□ 睡眠不足の樹木たち。


=====樹木と照明について======


最近の樹木は照明やライトアップ、電飾ブームで夜もなかなか寝かせてもらえないようである。
ご存知のように植物は光合成をする。光、水、二酸化炭素から酸素とでんぶんをつくるわけである
しかしこれは昼間の話である。
夜は人間のように酸素を吸って二酸化炭素を放出して呼吸をしているのである。
(厳密には呼吸は常に行い、明るいときは光合成も行う)
昼間一生懸命働き、夜は休んでいるわけであるが
それを夜遅くまで(場所によっては朝まで)葉を煌々と照らせれているという環境は
寝かせて貰えず働き続けているようなものである。
晩秋に街路灯近くの落葉樹が常緑樹かと思うほど青々としている時がある
また街路樹の照明器具側の葉にまだ青味が残り、反対側は落葉していたりという状態をなどもよく見かける
これにより樹木がすぐ枯れてしまうという例は少ないと思うがボディ−ブローのように叙叙にダメージを与え、
寿命を縮めているのではないだろうか

葉の裏に強い光があたるライトアップは自然界にはない光で樹木への悪影響が懸念される
ライトアップでなくても根元まで明るい色調の舗装材に囲まれたような環境では枯れてしまうなど
照り返しに弱い樹木は多い。(モミノキなど)。
樹木のライトアップは比較的安易に照明効果が得られるのでよく見受けるが
少なくとも葉のある時期の樹木のライトアップには注意が必要である。

クリスマスの時期になると電飾が華やかになる
電飾も幹、枝に電球を多数点灯させるわけであるから樹木に良いとは思えない。
ただ落葉期のケヤキなどは休眠期であるので常緑樹に電飾するよりは影響は少ないのかもしれない
モミノキは常緑樹であるがクリスマスの主役なのでこの電飾のターゲットになりやすい。
ただ前述したケヤキのような休眠期ではないので影響は大きいと思える。
どうしても電飾するときは期間を短く限定してかつ点灯時間もなるべく短くしたいものである。

[top]



□ バストは何cmが理想的?


=====目通りと樹木のボリュームについて======
樹木(高木)の規格は高さ、目通り、葉張りで呼ばれる
このなかでも樹木の植付も含めた価格では目通りが重要な数値となる。
極端にいえば目通りで価格が決まる。
この目通りというのは地上高1.2mの幹周の長さでcmで呼ばれる。
なぜ目通りと呼ばれるかというと昔は目の高さ(約1.5m)の位置の幹周で測定していたためらしい。
これがいつのまにかH1.2m、ようするに胸高の幹周になった。人間でいえばバストのサイズである。
なぜ1.5mから1.2mになったのかは定かではないが目の高さで測るより
胸の高さで測るほうが腕が疲れないからではないかと思っている。
また低い位置の方が幹周が太くなるため高く売れるので徐々に測定位置が下がってきたのだという説もある。
ようするにバストサイズで値段が決まる。
最近目通りと葉量の関係を推測した研究結果を見つけた。
パイプモデル理論を応用したものである。何種類かの樹木の規格と葉量(m2)をこの理論にもとづき
測定、推測して標準値を探り出したもので落葉樹と常緑樹でその値は分かれる。
そこで樹木のボリュームが葉量によるとして目通り何cmの樹木がボリュームとして一番経済的かをもっとも一般的なケヤキとシラカシで計算してみた。
結果はケヤキでは目通り18cmが一番経済的それ以上になると不経済になる
ちなみに60cmのケヤキの単価は18cmのケヤキの約11倍であるがボリューム(葉量)は6.6倍しかない。
ようするに60cmのケヤキの葉量を確保したいならば18cmのケヤキを7本植えた方がはるかに経済的であるということである。
シラカシでもほぼ同様の結果がでている
やはり18cmのシラカシが最も経済的で60cmのシラカシは価格は13倍以上であるが葉量は7倍程度しかない。
ようするにボリューム(葉量)だけを考えるなら目通りは18cmがベスト。
理想のバストサイズは18cmということになる。
樹木にとっても大きなサイズの樹木を移植するのはさまざまなストレスが加わるためあまり良好な結果がでないことが多い。
18cm程度が樹木にしても移植するサイズとして適当な値である。
しかしこれはあくまでも樹木をモデル化した理論値がベースであり実際には樹種、環境によりは葉量はさまざまであり
こんなに単純なものではない。

[top]



□ 最古のガーデニングマニュアル「作庭記」

======ガーデニングについて======
ガーデニングがブームである。テレビ、雑誌に毎日にように取り上げられている。
おかげで花市場も元気のようだ。
マンションのベランダでもコンテナガーデンと称し鉢植えの植物をメインとしたガーデニングが紹介され、
庭がなくてもみなさんガーデニングを楽しんでいるようである。
結構な事だと思うが中にはブームにのせられて寄せ植えの鉢を買い込み
水もやらず枯れたら鉢ごとごみ置場へなどどいう不謹慎な人もいるようで困ったものだ。
植物も動物と同じように生き物である。まさか小鳥を鳥かごといっしょにかってきて
餌もやらず死んだら鳥かごごとごみ置場へなどどいう人はいないだろう。
10年以上前になるがアメリカにいった時、ウィークエンドにフェンスを作ったり、
ペンキ塗りをしたり、庭木を手入れしたりといったいわゆるガーデンニングをしている光景をよくみかけた。
みんな器用にフェンスをつくるものだと感心してしまったがホームセンターにいってみると
木製のラティスフェンスなどのガーデニンググッズが所狭しと並べられ、
ガーデニング用のハウツー雑誌も豊富にあったのである。
当時の日本でもDIYはあったが棚をつくる木材が置いてある程度で
ガーデニンググッズなどはほとんどなかったのである。
それに比べると最近の日本のホームセンターもアメリカ並みになってきた。
ラティスフェンスなども1畳ほどの大きさで枠込みで5000円以下で売っている。
レンガや石材、枕木、トレリス、テーブル、イス、花物など品ぞろえも豊富で安い。
ガーデニングに興味がなかった人でもおもわず買いこんでしまいそうだ。
乗用車が運べないような大きなものは店のトラックを無料で貸し出しているところもある。
あるホームセンターではH鋼の切断サービスまであり、とても素人が扱えるとは思えず、
客も業者風であった。なにしろ最近のホームセンターはすごいのである。
ホームセンターの品ぞろえ、ガーデニングの本も豊富で現在の日本のガーデニング環境も大分充実してきたようだ。
ガーデニングのハウツー本といえば日本では鎌倉時代につくられた作庭記という
おそらく世界で最古のガーデニングマニュアルがある。
もちろんジャパニーズガーデンのマニュアルだが現代のガーデニングにも通じるところがあるかもせれない。
興味のある方はぜひチャレンジしてみてはいかがだろうか?

[top]



□ 名曲「スカボロフェアー」

======ハーブについて======
サイモンとガーファンクルの名曲スカボロフェアーにパセリセージローズマリーアンドタイムという歌詞があるが
これはハーブの名前であると何かに書いてあった。
そして、そのときはじめてハーブという言葉を知った。
ハーブがはやっている。いろいろな日用品にハーブの名前が多用されている。(天然ハーブ使用など)
ハーブの定義はあるのだろうか
一般にはヨーロッパ原産の香りの強い草として認識されているようで、
代表的なものではラベンダー、ローズマリー、カモミールなどであろう。
しかし調べてみると厳格な定義はなさそうである。
要するに生活に利用できる植物はすべてハーブという事みたいだ。
香辛料、食用、入浴剤、芳香剤、薬、飲用、鑑賞、クラフト等なんでも生活に利用できればハーブなのだ。
菖蒲も菖蒲湯に使うからハーブだし、日本茶なども飲用するりっぱなハーブ、
さしみのつまのしその葉、楠の葉、柚など書き出したらきりがない
そもそも日本人は植物とうまくつきあってきた人間だと思う。ハーブ先進国であったのだ。
しかし近年は生活環境から植物が減ってしまったためハーブとうまくつきあえる人が少なくなってしまった。。
もっと生活に、みどりを取り入れようとする気持ちが大切なのかもしれない。
公園などにもツツジばかりではなくもっとローズマリーなどを植えて
生活に役立つみどりを供給してもいいのではないかと思う。

[top]



□ スカイロケットとはどんなロケット?

======コニファーについて======

コニファー--Conifer--というのは英語で針葉樹という意味であるが、
最近日本はやっているコニファーとは針葉樹でも小型で成長が
比較的遅い外来の園芸品種をさしている事が多いようである。
代表的なものでは、ゴールドクレスト、エメラルドグリーン、ヨーロッパゴールド、
エレガンテシマ、ブルーヘブン、ローソンヒノキ、スカイロケット、グリーンコーンなどで
名前だけ聞いていると樹木の名前とは想像しがたいものが多い。
特にスカイロケット
これらは植えた当初から形がほぼ出来上がっている(円錐形がほとんど)事と葉の色が多様な事。
冬でも鑑賞できる事、管理が比較的楽などの理由で人気があるようだ。
ただきれいな花を咲かせたり、紅葉したりといった季節的変化は乏しい。
コニファーガーデンと称してコニファーを主体とした庭作りも人気で今後も人気はつづくと思われる。

<追記>
最近では流通しているコニファーの種類も非常に豊富になり、形状も円錐形、盃形、球形、地被形などさまざまである。
また冬葉の色の変化を楽しむこともできる。

[top]



□ ワインのコルクも使いよう。

======グランドカバーとマルチングについて======
グランドカバーとは文字通り地面を覆う植物のことである
そういった意味では当然、芝生や、ツツジのなどもグランドカバーであるが造園業界でいわれている
グランドカバーとはポット(ビニールで出来てる直径10CM前後の鉢)で出荷される
地被植物をさすことが多いようである。
代表的な物は、アイビー、タマリュウ(リュウノヒゲの仲間)、シバザクラ、マツバギク等である
グランドカバーの市場ははここ10年で多様化した。積算資料に掲載されている
グランドカバーだけでも20樹類以上ある。
最近よく見かける物ではヒペリカム(ビョウヤナギの仲間)がある。カリシナム、 ヒデコートなどの品種がある。
黄色い華やかな花を咲かせる。
それにしてもネーミングはどうにかしてほしい。ほとんど学名そのままである。
グランドカバーは植え付ける時、平米当たりのポット数でコストがかなり変化する
10cm間隔で植えればかなり完成度がたかくなるが平米100ポット必要になるので,
1ポット200円くらいの安いものでも平米2万円もかかってしまう。
間隔を20cmにすれば平米当たり25ポットで約5千円だが、植えた直後は
まばらで裸地がかなり目立ってしまうのである。
しかし裸地にマルチングを施せばイメージは大分良くなる。
マルチングは本来イメージアップに使われるのではなく、グランドカバーに限らず
植栽土壌からの水分蒸発防止、保温、雑草防止などに役立つ非常に有効な手法である。
そして美観にも一役かっているのである。
マルチングとはグランドカバーと同様地面を覆う物であるが生きた植物ではなく
バーグ(針葉樹の皮)やチップ(木材を砕いたもの)、繊維(ヤシ等)、ワラ、こも、
砂利ど様々な材料がつかわれている。
バークは観葉植物の鉢によく使用されている。屋外の植栽地の場合、バークやチップは
風で飛んだり、犬などに荒らされて散乱してしまうので注意が必要だ。
その点繊維質のものは絡み合うので飛散しにくく有効である。
マルチング材は数年で土になってしまうがその頃にはグランドカバーも成長し、
裸地を多い隠してしまうようになる。
先日、レストランの植え込みにワインのコルクでマルチングがしてあり、
雰囲気よく演出されていた。ワインのコルクもつかいようである。

[top]



□ 八方美人ばかりもてる!

=======生きた材料(樹木)の話=========
造園材料は建築材料とちがい生きた材料を使うことが多い。
もちろん樹木や草花のことである。
特に樹木は工場でコンベアーにのって生産される規格品とは違って千差万別である。
農家が苗圃で生産していたり、造園業者が生産していたりするわけである。
工場製品と違う点は前述したように生きた材料であること、商品として出荷できるまで年月(少なくとも3年以上)がかかる事である。
そしてこの時間がかかる事は注文生産がむずかしく見込み生産になってしまうという事である。
将来売れること見越して樹種を選定するのだがせっかく商品になってもその時、人気がなくほとんど使用されない樹種だと悲惨な状態になる。
逆に人気が急騰した樹種をタイミングよくもっていれば大もうけができるのである。
以前ハナミズキの人気が急騰し、品不足のため単価がうなぎ上りした。1年で5倍近く値上がりしたのである。
そこで生産者はハナミズキは儲かるぞということで苗木を買い生産したのだが商品になる頃には品物もだぶつきぎみになり単価もさがってしまった。
人気にあまり左右されず比較的安定した需要が見込まれる樹種はどこでも生産しているので値段のたたきあいになってしまう。むずかしいところだ。
また樹木という商品は在庫情報があいまいなことが多い。
全国的な在庫管理を統括しておこなっている組織など当然なく、唯一積算資料等に簡単な参考が掲載されている程度である。
工場のような設備投資も必要なく、空いてる土地があれば誰でもできるので全国の実態が把握できなくても無理がないのかもしれない。
しかしこの情報がないと設計者が品不足の樹種を選定した場合、造園工事業者は品不足の木を全国からかき集めなくてはならなくなる。
当然品不足のため樹型も選べず、単価も高くなってしまう。
そこで利益をだすためにどこかで調整しようとする。
その結果、できあがった物の質が悪くなるのである。困ったものだ。

商品としての樹木(高木)は枝が四方に均一に伸びているものとされている。
要するにどこから見ても美しくなくてはならない。
八方美人でないとダメなのである。
よって片枝の樹木は商品とはならず伐採されてしまったりする。
たしかに四方八方から見える位置に植えるシンボルツリーのような物なら八方美人である必要があると思うが、植栽する樹木すべてが八方美人である必要があるのだろうか。
建物の際に植えるのであれば片枝のほうが都合がいい。
また片枝同士を背中合わせで寄植えれば均整のとれた株立の木のように見せることも可能だと思う。
遠景でみどりの集団として見せるのであれば八方美人ばかりではかえって不自然でもある。
そういった意味で無駄の少ない樹木の生産と流通ができればトータルコストも安くかつ個性的な空間が創造出来ると思うのだが。
本来は樹木一本一本の特徴を生かした植栽計画が理想であるが、現実は始めに植栽計画があり、次に八方美人たちが選ばれていくのが大半なのである。

[top]



□ これからは自給自足。


========クラインガルテンについて==========
クラインガルテンとはドイツ語で「小さな庭」という意味であるが
日本の市民農園のようなものである。
市民農園との違いはまず区画の広さであろう
日本では標準で35平米くらいであるが、クラインガルテンではその10倍近い面積である。
またラウベという小屋がセットになっており、週末をクラインガルテンで暮らすのである
日本では趣味の農作業場という使われかたがほとんどであるが、
ドイツでは週末ライフそのものなのである。
またクラブ形式で運営されているものが多く、
期間も30年(日本では最長5年)と長期に利用できるため
コミュニティ活動も活発である。
収穫した野菜やハーブを持ち寄りラウベの前で仲間と
BBQパーティなどをして時を過ごすらしい。
すばらしい週末ライフである。うらやましい限りだ。

日本の週末ライフとして思い浮かぶのは、渋滞した道路と長蛇の列の遊園地、混んだレストランなどなど。
なんと貧困(精神的)な週末ライフなのであろう。

しかし、最近は日本でもラウベ付の本格的なクラインガルテンが出来始めた。
中には滞在型という事で地方(車で都心から2〜3時間)の農村に設置されているものも多い。
金曜の夜都心を出て土日をクラインガルテンで過ごすのである。
だが、この距離を毎週通うのはつらいであろう。せいぜい月1〜2回がいいところだ。
そうなるとどうしても車で1時間以内の場所に欲しい。
生活の一部となるにはそれこそ自転車で10分程度の距離が理想である。

無農薬野菜などがブームになっているが
自分で野菜をつくれれば安心した野菜が手にははいる。
そしてなによりも子どもがいる家庭などでは生きた教育ができるであろう。
遊園地などでは決して得ることができない生きた体験である。
セットされ与えられる受身的なあそびではなく、
自分で創造していくあそびでもあるのだ。
そして食べ物だけではなく、週末ライフも自給自足で築きあげるべきである。

かたい話になるが日本で市民農園をやる場合は農地法がからんでくる。
基本的には農家以外に農地を貸すことはできない。
そこで特定農地貸付制度という例外規定をつくり
農地を一般市民に貸す事が可能となった。
さらに、農地ではラウベ等の施設をつくることがむずかしいために
市民農園整備促進法をつくり、ラウベ等の施設の設置を可能としたのだ。

日本でもドイツのクラインガルテン並みの施設をつくる環境が整いつつある。

[top]



□ きれいなだけじゃつまらない。


========街並について==========
きれいに刈り込まれた生け垣と統一された門柱が続く街並。
いわゆるニュータウンといわれてきた美しい住宅地のイメージである。
しかし統一されすぎた街並には違和感もおぼえる。
それは閉鎖的であり、排他的でさえ感じる。
最近の分譲住宅地では生け垣ではなくコニファー等を利用した、
変化のある沿道空間を作り出しているものもでてきた。
統一という意味では各戸とも似たような植栽、外構(エクステリア)であるが、
生け垣のような線的な部分がなくなるだけでも大分イメージが違ってくるものだ。
私は東京の下町で生まれ育ったので子どもの頃はニュータウンなどとは無縁の環境であった。
統一された街並とはかけ離れていたし、雑多でゴチャゴチャしたものであった。
学校の友だちはペンキ屋、材木屋、大工、ゴム工場、自動車整備工場などさまざまであり、
その家に遊びにいくとそれぞれ強烈な個性があった。
当然ペンキ屋に行けばペンキの臭いが家中に充満していたし、ゴム工場などの臭いもすごかった。
自動車工場ではオイルの臭い、材木屋では製材ででるおがくずと木の臭いである。
当たり前だが家の間取りなども千差万別であるから結構友人の家にいくときは
家そのものが遊び場になった。
それに比べると統一された住宅地にすむ子どもは友だちの家にいっても
似たような外観でかつ、間取りも自分の家とほぼ同じだったりするのはちょっとかわいそうな気がする。
統一のなかにいかに変化、個性を盛り込んだ楽しい街並をつくりあげていくかが課題である。
楽しい雰囲気をだせるか、バラバラで嫌悪感を感じるものになるかは
結構紙一重なのかもしれない。

[top]


ご意見、質問があれば click here!